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■3.11東日本大震災直後の行動(当日と翌日) [震災・原発・復興支援]

2011年3月11日に東日本大震災が起こって、今日でちょうど2年。
テレビなどでは、震災から2年を振り返る番組がにわかに増えました。
でも、この2年目のこの日を、節目のようにとらえる気持ちには到底なれません。

犠牲になられた方々のご冥福を・・・・と言葉で言う気にもなれません。
二年たっても、震災は”過去”ではない、今も進行中のものなのだから。

とはいえ、東京にいる私の中で、自分自身のあの日の記憶は、黙っていたら少しずつ薄れていく。
今日は、あの日の私自身のことを思い出しながら、一日を過ごしてみたいと思います。

その当日のこと、翌日のこと、翌々日のこと・・・・・、「真姿の泉 TODAY ~野川源流・真姿の池湧水観測~」というブログに記録してあります。
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真姿の泉 TODAY ~野川源流・真姿の池湧水観測~
2011年3月11日(金)
http://masugata.blog.so-net.ne.jp/2011-03-16-1
2011年3月12日(土)
http://masugata.blog.so-net.ne.jp/2011-03-17-4
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この記録をもとにして、震災の年の7月に、「3.11東日本大震災直後の行動(当日と翌日)」という記録にまとめました。
私が所属している東西元町防災会では、会員全員が、「あの日、あの時、自分が何をしたのか」という行動記録をまとめたのです。

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3.11東日本大震災直後の行動(当日と翌日)

■2011年3月11日(金)
国分寺駅ビル地下の食品売り場で夕食の材料などを買い物して、外に出てくるとちょうどバスに乗れる時間。午後2時45分ごろでした。
バス停の列の後ろに並んだその時、列の前のほうにいたおじいさんが、「あ、動いてる、動いてる」と、向かいの駅ビルのほうを指差しながら叫びはじめました。
何が?と思いながら、私はショッピングカートに入れたバックの中からスイカを取り出そうとかがんだ瞬間、グラグラ揺れだしました。
自分が揺れているのか、ショッピングカートがブルブルしているのか、何が揺れているのか、よくわからない揺れ。
あとで皆に聞いてみると、自分が脳梗塞になったかと思ったという人が多かったので、やっぱり普通の地震とは違う揺れ方だったのでしょう。

あ、これは地震だなと思うまでに少し時間があって、その間にユッサユッサと揺れが大きくなり、「ワーまた大震災に遭っちゃうのかよ」、と思っている間も揺れは続きました。
すぐそばのビルの窓ガラスが割れるのではないか、電線が切れて落ちるのではないか、街路灯が落ちてくるのではないかとあたりを見回しながら、落ちてきてもぶつからない場所を目で探しながら、少しばかり移動。

歩いて歩けないほどの揺れではないから、阪神大震災の時の震度7の揺れとはだいぶ違います。私は、兵庫県西宮市で震度7の激震に揺られた体験を持ちますが、あの時は、立っていられないどころか、布団の上にペタンと座っていても振り飛ばされそうな揺れでした。
しかし、揺れは屋内よりも屋外のほうが小さいと聞くし、阪神大震災の時は4階建ての4階にいたから、今日のこの地震がいったいどのくらいの大きさなのかがよくわからない。

周囲の人々は、あたりを見回しながら立ち尽くしている人、女性の叫び声も聞いたような気がします。
揺れが少しずつ小さくなって行くと、おじいさんが一人、地面に座り込んでいました。そして大勢の人が車道に出ていました。
車は全部、止まっていました。

小さくなってきた揺れはいつまでもいつまでも続き、おさまるのかと思うとまた揺れたり、異常に長い地震でした。
阪神大震災の時の揺れは、最初の強烈な縦揺れ一発に続いてコトコトした微動、横揺れの激震まで全部含めてせいぜい15秒。
これ以上揺れると、建物が壊れるなと持った瞬間に止まり、漆黒の闇となりました。
今回の揺れはほんとうにいつ止まるのかと思うほど長い揺れで、私の感覚では2分くらい。
しかし、止まったと思った後もまた揺れだしたような感じがしていました。

震源域は、東北地方東岸の沖合いを南北に500キロの範囲だというのですから、何分かかけて、連鎖的に破壊が起こったというのはうなずけます。

2時51分、私が乗ろうと思っていたバスは、乗客を乗せたのか乗せないのかわかりませんが、発車して行ったのを見送りました。
え、運行して大丈夫かねと思いましたが、ほかのバスも運行を続けています。

私はとにかく、北口に住む母を見に行かねばと思いましたが、午後3時前のこの時間だと、囲碁の会員制クラブに居るかもしれません。
さきにそちらを見て、居なければ実家の家に向かおうと思い、とりあえず駅のコンコースを抜けて北口に出ました。
途中、駅の改札付近で駅員さんに、「震度などの情報は?」と聞いてみましたが、「何も情報はいっていません」との答え。
北口も見た目の被害はとくになさそうでしたが、西武線のほうから「震度6」と放送しているのが聞こえました。
テレビの地震速報に、国分寺の震度はたぶん出なかったのではないかと思いますが、あとで市のホームペ-ジを見ると、この時、震度計は「震度5弱」をさしていたのだとか。

周囲の人はみんな携帯電話を見ています。
私も母の携帯や、新宿の職場にいる夫に電話してみましたが、ぜんぜんつながらず、はやくも「しばらくお待ちください」のメッセージが出ています。
携帯電話が通じているような人もいるのに、ドコモはぜんぜん駄目。

囲碁倶楽部に着くと、会員の男性方は平然と囲碁を続けておられ、母はテレビを見ていました。
母は私の顔を見て、家を見にすぐに帰ろうと言いましたが、「まもなく必ず大きな余震が来るから」と言って、しばらくテレビの前にいさせてもらうことにしました。

ここで初めて、震源地が東北沖であることがわかりました。
沿岸部には津波警報が出ており、志津川の叔母の家族は大丈夫だろうかとは思いましたが、津波の高さ予測は5~6mだとテレビが伝えていました。5~6mでも大変な津波ではありますが、その時点では、まさかあのような津波が来るとは考えてもみませんでした。

叔母の家族とはその後、まったく連絡がつかず、宮城や岩手に住む大勢の親戚の無事が全部確認できた3/16になっても、叔母一家だけは安否がまったくわかりません。
避難しているはずの志津川中学校には、3/15、はじめて報道のカメラがはいり、KDDIの中継アンテナも設置されたそうですが、何の手がかりも得られません。(その後、叔母一家が避難して無事であることはわかりましたが、家は津波で流され、跡形もなくなってしまいました)

実家の建物は無事。中に入ると、写真立てがいくつか落ち、台所の棚から鍋が転がり落ちて取っ手が割れていましたが、損害は鍋一個だけ。
夫と連絡を取ろうにも携帯は「しばらくお待ちください」の文字が出るばかり。

テレビで大津波が来ていることがわかりましたが成すすべナシ。
母は弟夫婦と同居していますが、二人とも仕事場からいつ帰ってくるかもわからず、母を一人にするわけにもいかないので、今夜は実家に泊り込むことに。

夕食の支度は母に任せ、日があるうちにとりあえず、自宅マンションを見てくることにしました。
途中、ペットボトルの水をコンビニで3本購入。
マンションのエレベーターは止まっており、階段で5階まで。
マンション5階はさすがによく揺れたようで、本棚の上置き棚が落ちて、本の下に夫のサキソフォンが2台、埋まっていました。
ハードケースに入れてあるので多分、大丈夫だろうとそのままにし、鍋や薬缶に水だけ汲んで実家へと戻りました。
途中、国分寺の駅前には人があふれていました。
電車は止まったまま、今日中には復旧しないとの宣言があったらしく、テレビでは、枝野官房長官が「無理して歩いて帰るな」と言っていました。
東京は、地震の揺れそのものの被害は軽微と見えましたが、にわかに「帰宅困難者」の問題が浮上。帰宅した義妹の話では、いずみホ-ルに帰宅困難者が大勢避難したとのこと。

夫とようやく電話がつながり、夫は新宿から国分寺まで歩いて帰るつもりだったようですが、私のほうから「会社に泊まって」と伝えました。
すでに、篭城に備えて、食料の買出しはしてあるとのこと。
夜遅く、一部、地下鉄が動いたので、女子社員は帰宅。
夫と若い社員数人は、床にダンボールを敷いて仮眠をとったようです。

■2011年3月12日(土)
会社に泊まり込んだ夫は、早朝、中央線は動き始めが遅かったので、西武線まわりで実家のほうに帰ってきました。
朝ごはんだけ食べて、自宅へ戻り、夫はすぐに仮眠。
私は、10時から東西元町防災会の会合があるので、一応、行ってみることに。

真姿の池湧水に降りる階段も崖肌も、とくに変わった様子はなし。
湧水もいつものとおりでしたが、3/7の29.5ミリの雨がきいたようで、3筋に増えていました。(隣接農家のご主人の話によると、湧水は地震の直後はかなり濁ったとのこと)

東西元町防災会の定例会は中止となったので帰宅。

昼前に西国分寺まで買出しに。ついでにいずみホールに寄って、昨夜の帰宅困難者対応へのお見舞い。
帰宅困難者はすべて出発し、ちょうど帰宅するところだった館長さんのお話では、400人を受け入れたとのことでした。
この日は、本多公民館も数十名の帰宅困難者を受け入れたそう。

第四小学校にも寄って守衛さんのお話を聞きました。地区防災センタ-が設置され、近隣の人7名ほどが避難したとのこと。
住居に被害があったわけではないが、余震が怖いとのことで泊まったとのことで、その避難者も今は全員帰宅したとのことでした。
この日も一日中、頻繁に余震がありました。



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さきしなのてるりん

東京でもかなりの揺れだったのを
帰宅困難者という言葉が
ニュースで流れてきたので知りました。
娘のツレさんが東京単身赴任だったので、
携帯で連絡してみたがやはり連絡取れず。
実家に連絡して様子を知りました。
私はまだ松本で仕事をしていた時で、
外へ出ると電信柱が
大きくユラ~と長い時間揺れて、
不気味でした。
ラジオで聞いただけでは
その惨状がよくつかめなかったのですが、
たまたま通っていた
介護の研修先で見たテレビに言葉を失いました。

by さきしなのてるりん (2013-03-11 18:08) 

銀狼

私も同じような思いを抱いております。
「2年目の節目」と称して、ここぞとばかりに取り上げるマスコミの姿勢には
疑問しか浮かびません。
復旧・復興、そして原発問題、何一つ解決出来ていないのに。。。
とにかく私は日々を一所懸命に生きて、
その中で何か貢献できればと思っております。
何年・何十年かかるか判りませんが、
真の復興を果たすまで、「過去」にはならないモノでしょうから。。。

by 銀狼 (2013-03-11 20:22) 

リン

私はラジオで一報を聞き、動揺している、キー局のパーソナリティたちの声を聴いていました。
その後、すさまじい現状を知りました。
年に1回ではありますが、山口県の下松市でも復興のためのイベントを行っています。
私もその一翼を担う身。。。
by リン (2013-03-13 06:29) 

お水番

それぞれに、いろいろな「あの日」があるのですよね。
大地震は、日本中、どこで起こっても不思議ではないというのですから、次なる災害に備えて、震災を自分の身に引き寄せて行くためには、それぞれが自分の「あの日」を忘れないことが大事なのではないか、と考えています。

by お水番 (2013-03-14 10:36) 

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